こわがり気苦労

厳粛な気持ちになりやすい。
そういうタチなのだと思う。
子どもの頃から何かにつけおびえて暮らしていて、心配事がとても多かった。
数え切れない上に、驚くほど日常からかけ離れた心配事*1ばかりだったけれど、とても深刻に悩んでいた。
夜も眠れないほど悩んでいた。
なので睡眠不足の子どもだった。枕がしょっちゅうびしょぬれだった。


そんな子ども時代を過ごしてきて、今でこそ布団でめそめそと泣くようなことはなくなったものの、こわがりの心配性であることに変わりはなく、元気にのびのび暮らしている今が奇跡のように思われて、何に向かってか御礼申し上げたくなってしまうのです。
針のむしろのこの世の中で、私は元気に健やかに暮らしている、ビバ奇跡。サンキューゴッド。と。
しかし奇跡と思えば、常に戻されるのはいつですかと恐ろしくなるわけで、奇跡と思えば儚いのであると思われるわけで、また再びこわがりの心配性が本領を発揮するわけです。
そんな時は、なるべくやかましい感じのテレビをつけて、賑やかに笑いさざめく芸能人の方たち*2を見ては、私ひとりが奇跡なのではないですよ、皆が奇跡を共有してますよ、すなわちこれは奇跡なんかじゃなくってよ、常ですよ、と自己暗示をかけるわけです。
よく、日々に感謝をなさいだとか、日々のかけがえのなさだとかをあちこちでうたってますけれど、日常は日常でなければならんのです。
お皿だって、お洋服だって、普段は普段用ですもの。
普段でいないとこわくてこわくて安眠できやしませんの。

*1:主に戦争と、バチ(バチが当たるよ、のバチ)と、地獄と、貧しさ(大人になってからちっとも貧しくなんかなかったと知る)、あとは生死について

*2:当然彼らにも色々とあるのだろうけれど、そう思わせないプロフェッショナルがそこにある