どんどん鈍感

お姉さんになるに従って、鈍感になっている。
感じることの領域が限られて、その中だけでどんどん濃ゆくなってゆく。
涙腺はどうしようもなく緩くなっているし、善意に泣くこともとても増えたけれど、それでも鈍感だ、と感じてしまう。
自分が一番手に負えなかった十九、二十歳の頃の日記を読み返すと、この頃に戻りたいとはどうしたって思えないけれど、この鋭さが羨ましいなとは思う。言葉のひとつひとつが凶器のように尖っている。あまりに切実ですごく痛い。
この鋭さは今、どうしたって手に入らないけれど、こうして読み返して反芻することはできるのです。
時々、自分の鈍感さに危機を感じるとパンドラと呼んでいる箱の中から日記を取り出して、少し読む。全身を細かい傷が覆うような、ひりひりした痛さを伴うけれど、そんな痛みは当時の自分からしたら虫刺されみたいなもの。
このくらいの刺激でもって、心のコリみたいなものを取り除く。
あの頃、人間として生きていることに嘆いてばかりいて、野生動物になりたいとそんなことばっかり思っていた。想いも悩みも願いも恐れも何も持たないで、ただただ、生きることに専念したいと思っていた。食物連鎖の鎖の中で食って食われて数珠繋ぎの命を繰り返すのだ、と思っていた。
悩んだりすることが辛かったわけじゃなくて、それがすごく不自然で汚いことだと思っていた。
正しさが欲しかった。生き物として正しくなりたかった。


あの頃、不自然さに反抗するあまり、周囲に叱られてばかりいた。
みんな騙されているのに、錯覚ばかりしてるくせにどうして私を責めるのかとかなしくて仕方がなかった。
こんな世界で上手く生きられる自信がなかった。


なのにどういうわけかこの世界で上手いこと生きている。
就職して、結婚して、それなりにちゃんと生きている。
あの頃の私が見たら目を剥いて驚くだろう。もしかしたら吐き気をもよおすかもしれない。
あの日々からうんと遠いところに今、私はいる。
これでいいんだろうか、と時々、ほんの時々不安になる。


そんなことを考えていた今日、河馬が敵から身を守るときに撒き糞というのをするとテレビでやっていた。
読んで字の如く、糞を撒き散らかして敵を煙に巻くという荒業。
身体に身を守る術が身についているってすごく格好いい。そういうやり方で恋をしたり、何かを選んだりしたかった。
でも糞を撒き散らかしては人間社会ではきっと警察のお世話になってしまう。
やっぱりその場所での生き方ってのがあるんだな。と無理やりに教えられた昼下がり。